「珍しいな。乱れ菊に見えたが……彼岸花か」
浴衣の柄を見た的場屋の、第一声。
紫を主体とした濃淡の生地に、薄く重ねられた紅の曲線は、夕暮れの空に映える彼岸花の意匠。帯結びは片花文庫で、同じく彼岸花をあしらった簪を飾りに差している。
「曼珠沙華。万化に贈られたものだからな」
「――ああ、それでか」
描かれた花の別名を口に乗せれば、納得した風情で軽くうなずいた。
着付けの仕上げを確認していた万化が、少しばかり不安そうに問う。
「やはり、こちらで着るには不釣り合いでしょうか」
「気にすることはない」
こちらを窺う金茶と若葉色の双眸に微笑みを返して、香籠はひら、と手のひらを振ってみせる。
「何も祝いの席に闖入するわけでなし、知己の前で着るくらいは構うまいよ。たまにはお披露目してやらなければ、着物にも悪い」
「……はい」
重ねて告げれば、ようやくほっと息を吐いて、万化が笑った。肩下まで伸びた夜の色の髪が揺れる。
もともと、万化のほうは周囲の事情が煩かっただけで、庇護を与えていた相手とはきちんと情で繋がっている。思い入れのある服を、全く着るなというのも酷だ。
話を把握している的場屋も、心得た顔で言葉をかける。
「そうだな。どうせ外では目くらましを掛けんだろ? 気に入ってる柄なら構うことはねぇ、気にせず着ろや。似合ってるぜ」
「はい。有難うございます」
「……うっわぁ、なにこの敵地に単独突入みたいな空気」
隣に目をやれば、地の色を晒した風流が、濃い緑青の瞳を眇めていた。
「何を今更。往生際の悪いことを言うね、風流」
「いや予想以上。なにこれ、香籠の部外者っぷりはもういいけど、外の連中は増える一方だし、そこの柄の悪いのはさっきから万化しか見てないし」
げんなりとした表情と口調で、風流が外へと目を向ける。
建物の中からでも、気配がそれなりの数になっているのは容易く読めた。
「何か催し物でもあるのではないかね? しばらく待てば散るだろう」
「あぁ、婦人会の集まりだろうよ。幾つか出店をやるっつう話だ」
「店? ご商売をされている皆様の集まりなのですか?」
「いいや、普通の奥様がただぜ。届出がしっかりしてりゃ、ここらの祭りは素人でも店を出せるのさ」
「そうなのですか? ……結構な人数がいらっしゃるようですけど、何をなさるのでしょうね」
「まぁ大体は食い物だな。焼きそばだの氷だの、難しくねぇようなやつだ」
不思議そうに尋ねる万化と、慣れた様子で説明を返す的場屋。
「……ああ、確かに。かき氷は、機械だけ借り受ければ出来そうですね」
「そういうこったな」
「……ごめん香籠、帰っていいかな。居たたまれない」
「覚悟を決めなさい」
真顔で往生際の悪い事を言い出す風流には、端的に却下を申し渡しておく。
もうしばらく祭りの話に花を咲かせてから、的場屋が軽く腕を回し、呟いた。
「さて、俺はそろそろ出る。こっちは任せるぜ」
「――あぁ、こちらは適当に捌いておく」
「そうしてくれ」
応じて、森の方角へと鳴弦を一度。
「……さぁて、一仕事といくか」
そのまま梓弓を手に外へ向かった的場屋が、ふと首をめぐらせて風流を捉える。
気付いた風流の挑戦的な緑青と、幾分か遊ぶ気配のする的場屋の錆色、二色の視線が絡んで、ほどなく離れた。
「まぁ気張れよ、若ぇの。仕事じゃねぇんだ、同業だ同輩だは置いといてエスコートしてやれ」
肩越しに空いている右手を振って、揶揄とも叱咤ともつかない一言。
らしい物言いにふと笑った香籠の横で、言われた『若いの』が憮然と呟いた。
「……言い逃げとか、ほんといい歳してどうかと思うんだけど」
困惑する万化に風流を持たせて送り出すと、香籠はざっと屋内を一周して気配を探る。
幾つか怪しい箇所に仕掛けを施して、屋外に通じる場のひとつ、弓道場に腰を落ち着けた。
弓を放つための射場に座り、森を背景に広げる道場を眺める。
逢魔が時をいくらか過ぎた頃、昼間よりは大人しくなった蝉時雨と、流れ始めた祭囃子とが、ぬるい風に乗って流れてくる。
「…………」
薄く、自分を遠巻きにする眼を察して、香籠がゆるりと視線を投げた。
風が運んでくるのは、祭りの空気にあてられて浮かれた風情の、ひそやかな囁き。
――なにか、いる。人か、人か?
――わからない。強い。
――強い。鬼か、鬼か?
――いや、弱い。
――弱い。人か。わからない、強い。鬼か。いや弱い。
――わからない。
――なにかいる。
戸惑って繰り返される問答が続いて、ぱたりと止む。
しばらくして、ふと、風が凪いだ。
手許に出した扇を軽く開き、音を響かせて畳む。
反応して、ぞろりと湧いた気配が一瞬その動きを止めた。
眼鏡を外して仕舞うと、香籠は片膝を立てて身構え、灰緑の眼を細めてそれを見据える。
かすかに、枯れた言の葉が届く。
――否、弱い。通れる。
だん、と、的を射ぬいて矢が刺さった。
「――化生」
近くに揃えておいた弓矢をとり、射場から飛び出しながら一矢を放って、薄く笑みを刷いた唇から警告を紡ぐ。
「此処を守るものを知っての戯れか。的場の司が在ると承知で尚の行いとあれば、その愚かさ、身と諸共に射抜いて散らしてくれようぞ?」
告げながら歩を進め、今度は違わず気配へと照準を合わせて、弓を引く。
「退け、化生。宵宮の気に惑うての仕儀なれば、一度は気の迷いと見てやろう」
射た矢は、くぐもった音を立てて的場に盛られた土へ刺さった。
掻き消えた気配が、遠く、一声を上げる。
――否、通れぬ。退こうぞ、退こうぞ。
「――それで結構。化生とて、無闇に禁を犯すことはなかろうよ」
呟いて、香籠はまた元の位置へと落ち着き直した。
「何だ、逃がしちまったのか?」
程なく戻ってきた的場屋が、矢の痕跡に気づいて尋ねる。
「さして害意のあるモノでもなかった事だ、下手に祓ってあちらの力関係が崩れても困るだろう?」
「ああ、確かになぁ……ったく、あの規格外のせいでこっちも面倒でいけねぇぜ。根こそぎ追い散らしやがって」
白髪のまじり始めた鳶色の頭をがしがし掻いて、特区を文字通り『一掃』してくれた同業者に文句をつける的場屋。
結果を見越して手配した香籠としては、無言で苦笑するほかない。
大立ち回りをこなしてくれた絡繰屋を擁護するか、そのしわ寄せで集まってきた異種に手を焼く、眼前の相手に同情を示すか。
どうするかと思案していると、道場の戸が開かれて、何やら間の抜けた呼びかけがした。
「ふぁほめー」
「……うん?」
応じて振り返り、しばし悩んでから、香籠はとりあえず教育的指導を優先する。
「風流。物を咥えたまま歩くのはやめなさい。食べ物を口にいれたまま話すのも行儀が悪い」
左手にかき氷と袋を持ち、口になにやら食べ物を咥えて、空いた右手で戸を開けた風流が、異議を唱えた。
「ふはほー……不可抗力、不可抗力。うわぁ、べったべた」
右手にチョコバナナを持ち直し、中々の惨状になった口の周りに顔をしかめる。
「……何やってんだ、手前ぇは」
「だから不可抗力だって、ひとの話はちゃんと聞くように教わらなかったの、的場屋。万化の手が塞がったから、こうでもしないと戸が引けなかったんだよ」
これは無視できなかったか、呆れた声で話しかけた的場屋に、風流が相変わらずの回転で応戦して、背後の人物を言い示す。
「……すみません、なにぶん、不測の事態が起きたものでして」
「途中で口紐が切れてさ」
風流が補足しながら身体をずらして道をあけると、申し訳なさそうに万化が顔をのぞかせた。
両手で包むように持っている袋が、室内の照明にきらきらと反射する。