始まりは、多分その一言だったのだろう。
「怪しいな」
――奇跡屋さんたちの、ちょっとした日常のおはなし。
***
苦しそうな声。真っ青な顔で、男が口元を押さえて呟いた。
「……どこで間違ったんだ……?」
どの選択が悪かったのだろうかと、この惨劇へ続く事になった、一連の出来事を思い出しながら。
始まりは、多分その一言だったのだろう。
「怪しいな」
歳は40を過ぎた頃、よく見れば白髪が混じり始めているのが分かる、黒い髪の男が言った。どうも子供っぽい雰囲気の抜けない、目尻にしわの寄った黒い瞳が、面白そうに笑っている。
視線の先にいるのは、アームチェアに座って本を読んでいる、20歳ほどに見える青年。
「……何が?」
言って、書面に向けていた顔を上げると、まとめもせずに流している長い黒髪が揺れた。同色の目をうっとうしそうに細めて、彼は肩から落ちた髪を背中に戻し、呟く。
「男の長髪がどうのって話なら、僕の場合は不可抗力だから聞かないよ、イセンシャル」
「いや、風流(ふうりゅう)。あの2人だ……怪しい事この上ないじゃないかい」
『イセンシャル』と呼ばれた男性は、手を振って青年の言葉を否定した。あの2人という単語を使って、話題の相手をほのめかす。
すぐに理解した『風流』が、途端に呆れた表情をして口を開いた。
「あの2人が怪しいのなんて、1日1回、毎朝、東から、日が昇るのと同じだよ?」
わざわざ文節ごとに区切っての、ゆっくりとした口調で言われ、イセンシャルが苦笑する。
「……いや、まあ否定はしないがね、確かに」
「怪しくない彼らなんて、何が起きれば拝めるんだか。拝みたくもないけどね、僕は」
「わたしも拝むつもりはないなあ……それは」
「そもそも、怪しくなかったらって仮定が有り得ないってば。あの2人なんだから」
「ああ……まあ、そうなんだが……揃って、というのが、なあ……」
「香籠(かごめ)と絡繰屋(からくりや)ですか?」
風流の背後から尋ねる声。廊下に続く扉のそばに、少しだけ赤の入った濃茶の髪の、20代半ばくらいだろう青年が、両手でトレイを持って佇んでいた。問う色を浮かべた瞳は、明るい黄土色。
トレイに乗っているのがティーポットとカップ、それに茶菓子だと気付いたイセンシャルは、嬉しそうに破顔する。
「気がきくねえ、万化(ばんか)」
「断りなく使わせて頂いたのですが、宜しかったでしょうか?」
丁重に事後承諾を求めながら、『万化』というらしい彼は、ゆっくり2人の所へ近付いていった。給仕を待つ姿勢に入った風流が、簡潔な承諾の意を伝える。
「大丈夫」
すると、呆れたような声音での突っ込みが入った。
「……ここはわたしの店だろう、風流」
「そうだけど、だから何?イセンシャル。従業員が出払ってる今日、万化にやらせるしかないじゃないか。あなたは自分じゃ出来ないんだからさ……棚の中身を把握してない店主って、どうなんだろうね」
あっさりと返され、店主が長く深いため息をつく。その横にあるカウンターへとカップを置いて、万化が再び問いを発した。
「それで、あのお二方がどうかされたのですか?」
「どうって、いつも通りらしいよ」
「最近、怪しいんだと言ってるだろう、さっきから」
「だから、それのどこが妙だっていうのさ。いつも通りじゃないか」
「……いや、だから。そういう怪しさじゃないんだと……」
渋面になりつつある彼に、全員の茶を淹れ終わった給仕役の、まっとうな反応がよこされる。
「先ほど、揃ってどうのと聞こえたのですが」
「そうそう。最近よくあの2人で何かやっているだろう? それが怪しいと思ったんだが」
話が通じそうな手ごたえ感じ、嬉々として語るイセンシャル。興味をひく話題だったのか、風流が首をかしげて言った。
「そうだっけ? あぁ、僕は顔をあわせてないからか……香(こう)屋と機械屋じゃ、共通点もないだろうに」
「絡繰屋は修理が主でしょう? 機械仕掛けの香炉か何か、香籠が専門とされている方向で、修理の依頼が入ったのではありませんか?」
「それも考えられるがねえ……ここ半月ぐらい、ずっと続いているようだから」
「修理についての相談にしては、半月というのは長いですね」
「だろう? 怪しいんだよなあ……気になって仕方ない。何を隠しているんだと思う?」
話が盛り上がりだした時、ぶっつりとその流れを絶つかのごとく、冷静な指摘が飛んでくる。
「隠してるとは限らない。というか、隠してるなら、こんな所で何を言っても無駄だろうね、相手が相手だし」
「風流……面白みのない事を言うね、君は」
「事実を言っただけだよ」
「それが無粋だ。盛り下がるだろう、場の空気が」
重々しく断言してみせた相手を眺め、一拍おいて、見下した目で微笑む風流。腰を下ろしている簡素なアームチェアが、どこぞの玉座じみて見えるほどの、傲然とした態度で口を開いた。
「営業中の無駄話で説教。半ば職務放棄してる店主に、場の空気だの何だのってゴ高説をのたまわれても、失笑するくらいしか出来ないんだけど」
「出たな、王侯貴族トーク……自分の店に顔も出さずに、他人の店に来て好き勝手しておいて……」
「因みに、往路で使われたのは私の車です」
「だってついでだろう? 当然、乗せてくれるよね?」
「いつもの事ですしね。帰路もお送りしましょう」
悟った風情すらある笑顔で、穏やか丁寧に万化が答える。がくりとカウンターへ顔を伏せ、最年長であり店の主である筈の男が、低いうえに暗い声を絞り出した。
「用があったのは万化であって、風流じゃなかったというのに、一番くつろいでいるのは誰だ……」
「わざわざ足を運んできた万化に、茶の用意をさせておいて、言えた義理じゃないと思うよ?」
「う」
短くうめいて沈黙するイセンシャル。3秒くらいの静寂を破り、はたと顔を上げて曰く。
「違う。話はあの2人の事だ」
「だから考えるだけ無駄だって」
またも給仕をさせた2杯目のお茶を手に、招かれざる客が、気のない冷淡な宣告を下す。読みかけだった本を開いて、どうでも良さそうに付け加えた。
「そんなに気になるなら、本人に聞けばいいだろうにさ。下手すると痛い目にあうけども」
「あいにくと今は仕事中だよ、風流……虎穴には踏み込めない状況だ」
「閉めればいいだけの事じゃないか、店」
「……は?」
驚愕の表情で固まった彼を無視し、事態は容赦のない速さで動いていく。
ほとんど読み進めなかった本をまた閉じると、風流が椅子から立ち上がった。まだフリーズしているイセンシャルのもとへ行くと、有無を言わせぬにこやかさで『お願い』をする。
「電話したいんだけど、貸してくれるよね?」
「……電話?」
「そう、借りるよ」
言いながら、カウンターに置いてある電話を掴んだ。止めるでもなく、擁護するでもなく、ただ傍観しているのみの万化が、その様子を見てゆったりと呟く。
「返答を待たずに行動される辺り、半ば以上は事後承諾ですね」
声が聞こえていない筈もないが、聞こえなかったとしか思えない無反応で、風流は手早くダイヤルボタンを押していった。
「――あ、風流だけど……え、違うよ、そういう話じゃなくてね。その事でもないんだけど。ちょっと、これからそっちに行くから、今いる場所を……あぁ、丁度いいや、近いし。あれ?都合悪い?いや、どうせ僕はそんな事知らないから。あはは、じゃあそっちから言っといてよ」
さして待たず相手に繋がり、あっさりと話が進んでゆく。いったん受話器を離しかけて、何か言われたのかまた耳につけた。つかの間、訝しげな顔をする。
「んん?さぁ、どっちだったかな……そう? うん、じゃあ1人分は確実に用意よろしく」
最後は楽しそうな笑いで締め、通話を切って受話器を戻した彼に、確認の色合いが濃く現れた、一応といった感じの質問がきた。
「……これから行く?」
「近くて、丁度いいんですか?」
「行くよ。丁度いいし近い。早く上着とってきて閉店準備しなよ」
その言葉で、今の今まで延々と停滞していた、イセンシャルの頭が再稼動する。次の瞬間、何とも複雑な感情の読み取れる叫びが上がった。
「は!? 何、わたしも行くのかい!?」
「この流れで、どうすれば残るって結論が出せるのさ」
「な、流れって……」
大いに混乱している彼の眼前に、すっと何かが差し出される。見ればそれは自分の上着で、腕にかけ持ってきたのは微笑の万化。
「どうぞ。これで宜しかったのですよね?」
「ああ、そうだけど……」
肯定の返事を受け、やたらと物腰の柔らかい客人は、店主の手に上着を渡すと、対照的に横暴な客人の方へ笑いかけ、告げた。
「では車を出してきます」
「イセンシャルがシャッター閉めるから、入り口にね」
「承りました」
「…………。」
かくしてその日、essentialは臨時休業の知らせを出す。
そして。
……舞台は、惨劇の現場となる地へ移ったのだ。
「来てしまった……」
口からはみ出した魂が見えそうな様子で、イセンシャルが力のない言葉をこぼした。
彼の右斜め前方で、風流が気負いもなくチャイムに手を伸ばす。だが、ボタンが押されるより先に、ドアが内側から開かれた。
「久し振りだね、風流。後ろの2人には最近会った事だし、挨拶は省くとして……とりあえず中においで」
心なしか『とりあえず』を強調して、唐突な来客を迎え入れたのは、20半ばを過ぎた頃だろう男性。何故か羽織っている白衣と、茶色みを帯びていない黒髪という、モノトーンの組み合わせの中、眼鏡の奥で笑っている双眸は、灰色がかった緑をしている。
「悪いね、香籠……いきなりで」
「失礼します」
「どうぞ。訪問者を想定していない場所なもので、見ての通りの狭さだけれど、ね」
言葉を交す3人を綺麗に無視して、風流がさっさと上がりこんだ。軽く部屋を見回して、尋ねる。
「今まで作業中だった? 香籠」
「電話を受けて、頃合いでもある事だし休止したよ。もっとも、来るのはせいぜい2人だろうと思っていたから、茶請(う)けが足りていなくてね……どうも、今日はそういう巡りらしい」
玄関から見ると、部屋に入ってすぐ右手がわになる、シンプルなつくりのキッチンに目をやった『香籠』が苦笑した。会話を聞いて、万化が買い出しを申し出る。
「でしたら、何かお茶菓子になりそうなものを買ってきましょうか?」
「助かるけれど、貴方の用はいいのかね?」
「私はただの付き添い……と言うか、運転手ですから。お二方のような用事は何もないんです」
答を受けた香籠は、少し考え込んだ後にうなずいた。
「では、お願いするとしよう。ここで食べるものなのだから、請求はこちらに回してくれ」
「それでしたら、領収書を貰っておきます。車は置いたままで宜しいでしょうか?」
廊下を引き返し、玄関にて靴をはきなおしている買出し係へ、出資者が笑いかける。
「構わない。来た早々、せわしなくて済まないね」
「好きで申し出ただけですから、お気遣いなく。では失礼して行ってきます」
おだやかに笑い返して、礼儀正しく頭を下げてから、万化が外に出て行った。
背を見送って室内に戻ると、香籠はキッチンへ足を運ぶ。
「まずはお茶でも出すとしようか、一応は来客な訳だから」
言いながら棚を見て、彼はいくつかの缶を取り出した。気になったのか、風流がそちらへ移動する。
ケトルやポットを用意し始めた2人を、所在なげに眺めていたイセンシャルの目が、ふと窓際に置かれた小ビンを見つけた。すぐ横には、二つ折りにされた紙が、添えるように置いてある。
「……?」
全体的に余計なモノがない、殺風景ともいえるこの部屋には、その品はどうもそぐわない。興味を引かれ、彼は窓へと歩いていった。
落としたりする事がないように、注意してそっと、ビンを手に取ってみる。
ぴったり握りこめるくらいの大きさ。スミレ色の薄い和紙が、ビンの胴に丁寧に巻かれ、その上にエンジ色のリボンが結んであるという、一見して贈り物と分かる装飾がしてあった。
「プレゼント?」
意識せず呟いた、自分の声を認識した瞬間、脳内で疑問が爆発する。
――誰に、誰が、何のため? 香籠か? 貰ったのか? 贈るのか? ……贈るなら、誰にだ?
香籠の専門は、名前から分かるとおり『香り』に関する分野だ。とすると、コレは香水か何かだろうか。彼を敵に回すのはご免だが、しかしこのビンが何か気になってしかたない。
長いようで短く、短いようで長く思える、激しい葛藤の末。
ビンを持っている手が動き、ふたを外した。
……その一部始終を見ていた香籠が、目を細める。
パンドラの箱は開かれた。
封印を破られ、小ビンに詰められていたモノが外に出る。それが何かを理解するより早く、イセンシャルは引きつった叫びをあげた。
「なん……っ!?」
異臭。鼻呼吸はおろか、ほんの僅か口に入れただけでも、咳すら出なくなるような、すさまじい匂い。
例えて言うなら、夏場の蒸した畜舎+澱みきったドブ+食品の域を越えて醗酵したチーズ。そんな、想像するのも恐ろしい、各方面の雑多な悪臭を、濃縮して混ぜて熟成させたような……。
比喩でもなんでもなく、真実として、光の乱舞する視界というものを体験し、本気で死を覚悟した彼の目に、魔のビンに添えられていた紙が映る。
流麗な字で綴られた文は『――危険物につき、間抜け以外の服用を禁ずる。留意されたし。 香籠』という、いたって簡素な注意書き。
それが意味することは一つ。
――嵌められた。
遠のく意識でそれだけは認め、イセンシャルは自問した。
どこから選択を間違っていたのだろう、自分は……と。
――Fin.