あるいは――彼女は『特別』に、なりたいのかもしれない。
どこにでもいる、可愛いただの女の子ではなく――特別な女の子に。
06.
カン、カン、カン、と、金属を叩く音が夜気に吸い込まれて、消えていく。
深夜の非常階段、踊り場。眼下には遠く、地上の明かり。天へ天へと駆け上がっていた足が止まって、視線が、威嚇するように周囲を鋭く撫で切った。
不意に風を切る短い音を立てて、頭上から誰かの靴底が襲いかかる。避けて、恐れ気なく踏み込み、降下してきた襲撃者に蹴りを叩き込み返す。
よろけた相手をさらに蹴り、転がした時、カン、と軽い足音を響かせて、もうひとりが追いついてきた。
「――遅いんだよ」
険悪な舌打ちとともに毒づいて、再び階段を駆け上がる――空へ。
揺れる視界。屋上の床、鉄柵、暗い夜空へと、景色が回る。叫んだ言葉は、届いただろうか。
束ねたケーブルを力任せに引きちぎったような、不愉快な衝撃が意識を殴りつけてくる。
回る世界。ちらちらと白く羽が舞って、溶けていく。
ぱちん、と音さえ聞こえそうな鮮やかさで世界が切り替わって、ちらちらと雪が舞い落ちた。
ぼんやり雪雲を見上げる小さな人影。
ふと瞬いたその目が、彼女に気付いて、視線を向けて、その目が、彼女のよく知る、どうしようもなく呆れたいつもの目に変わって。
ちらちらと、灰が、舞い落ちる。
いつ以来だろう。まっすぐな視線が、彼女を素通りして彼方に向いていた。
まっすぐに、向けられた銃口を、睨んでいた。
***
ガン、と、頭に衝撃が、ひとつ。
「っ!」
見開いたチナミの視界に、見た事のあるような、無いような、自室とは違う天井が飛び込んでくる。
「……あれ……?」
呟いて、ぼうっとしたまま、辺りを見回そうとして頭を上げると、顔の横に小さなフォトフレームが落ちていた。……つまり、そういうことだな、と察して、衝撃の走った頭をこすこす撫でる。
フレームには、チナミにもお馴染みの可愛らしい笑顔がおさまっていた。
「ユミ……チナミさんは、落ちるようなとこに、こういう痛いもの置かないで欲しいです」
ぼやいて、近くのカラーボックスの上へ、それを戻す。うまく立たずに倒れそうになるのを、なんとかそうっと置きなおして、倒れても落ちてこない位置で安定させると、チナミはもぞもぞと布団を被った。
借りた布団の寝心地は悪くない。そう、まだまだ寝れる。余裕で眠れる。
夢を見なおすべく、のんびり二度寝を始めたチナミの安眠は、しかし、すぐに破壊されてしまった。
ぱたぱた足音がして、居間のドアが開く。ちょうど、イイ感じにうとうとしていたチナミが音にビクっとなって起きる、そんな絶妙なタイミングだった。
「はうあー」
「へ?」
情けないチナミの鳴き声と、きょとんとしたユミの疑問の声。ついでにフォトフレームがぱたん、と倒れる。
布団をたたみ、スペースを確保するために動かしていた家具を戻して、チナミはひとつ息をついた。
「おはようございます……ねむいです」
「おはよう。よく寝るね、チナミ。そんな端っこに寝てなくてもよかったのに」
「チナミさん、隙間があると落ち着かない子」
「ええー? 窮屈で寝にくくないの? 壁とか……そこの棚とか、ぶつかったりしない?」
「あー、うん、ちょっとぶつかった……ぽい?」
たぶん、それでフォトフレームが落ちてきたんじゃないか、と思う。
さて今は何時ごろだろうかと、電話で時刻を確認して、チナミは小さくうめき声を漏らした。
「あわぁ」
電池が、ヤバい。
ヨリへ渾身の土下座と詫び文を送り付け、謎の施設でお話をした、その翌日である。結局、一人での帰宅は危ないと、ユミの家にお泊りすることになってしまった。
へろへろと眠りに落ちた昨夜は、充電のことなど考えていなかったが……ああでも、気付いてもダメだったぽいね、と乾いた笑みを浮かべるチナミさんである。
「チナミ? どしたの?」
「電話の電池がピンチな感じで……うん、でも、充電できそうにないなあって」
「……あ、そっか。チナミの電話ちょっと古いもんね」
「ユミのは……変えたばっかりだっけ」
「うん。前に使ってたのけっこう古かったし、思い切ってね、サキさんとおそろいのにしたの!」
嬉しそうに、可愛らしいカバーでデコられた電話を見せて笑う友人。
あんまりメカに強くないチナミも、なんとなく分かった。ほぼ最新型の、流行ってるやつだ。
ちまっとした自分の携帯電話を見つつ、しょんぼり呟く。
「……電源、合わないよねえ……」
「……合わないと思うなぁ」
「早く変えればよかったのに」
「ええー……新しいの、高いし、使い方よく分かんないし……どうせなら、もうちょっと待てって言われたし」
「使い方って……使ってるうちに覚えるよー。狙ってる機種とかあったの?」
「へ? ううん、チナミさん機械はよく分かんない。そういうの詳しい知り合いがねー、ええっと、次世代なんちゃらがくるからって」
「なにそれ」
「チナミさんよく分かんない」
首をかしげるユミに首を傾げ返してから、記憶を掘り起こした。
「確かね、通信のなんかが変わるとかで。も少ししたら、対応の端末が出るだろうから、どうせ変えて混乱するならそっち出るの待ってろー、って言われたんだよね」
「はあ」
ぼんやりとした説明に、同様にぼんやりとした返事をして、彼女は不思議そうに何度か瞬きをする。
「なんかそういう友達、多いよね、チナミって」
「へ?」
「ええとね……機械とか、通信?とか。チナミはそんなに興味なさそうなのに、ちょっと不思議」
言われて、チナミは自分の周辺人物たちを振り返ってみる。
(……よく分かんないけど調べ物は得意なヨリに、メカって胸キュン!とか言ってるサッちんに、ええとそれから、ゲーム機が大好きなチロちゃんはどうだろう、カウントに入れていいのかな)
何人かを脳内で選別すると、うむ、と頷くチナミであった。
「確かに、ちょっと多めかもしれない。……あれかなあ、仕事の関係かな?」
「え、チナミ仕事してるの? バイト? え、どんな仕事なの?」
「ええ?」
急に食いついてきた友人に、ちょっと引き気味でのけぞる。
そんな彼女の気持ちを知ってか、知らずか、輝く目で言葉を続けるユミは楽しそうだ。
「えー、だって! 仕事の関係、だって! なんかオトナって感じですごいよ」
「……ああ、そういう……」
大人への憧れ、的なやつだろうか。
そういえば、昨日の謎施設でも、会議室にやたらテンションが上がっていた。つまりはまあ、そういうお年頃なのかもしれない。
「てゆか、うちの学校バイト禁止だよ、ユミ」
「許可制でしょ、申請してやってるんじゃないの?」
「ないない。仕事っていうのはチナミさんのじゃなくて、親のです」
だいたい、チナミさんには、そういう小難しいことを要求してはいけないのである。
よく置いてけぼりになったり迷子になったり、忘れ物をしたり、ちょっと残念だと言われることが多い自分に、機械とか通信とか、そんな仕事は無理に決まっている。
「ユミちゃん、ユミちゃん」
「えっ、なに、なにっ?」
ちょっと改まって、ちゃん付けで呼びかけを重ねると、ユミがびくっと肩を跳ねさせた。
「落ち着いて冷静に考えてね、ユミ。チナミさんにそういう適性がありそうだなって、思いますか?」
「えっ……あ、えーっと……」
一瞬だけ考えて、返事に困り始めた友人を眺めながら、うんうんと頷く。
「ないよねー」
「う……なんか、その……ごめんね……」
肯定できなかった申し訳なさで小さくなる彼女に、適性の話はまぁどうでもいいのだけれど、ユミにはもうちょっと、普通に考えて分かるだろ的なアレをお願いしたいなー、と思うチナミだった。
「うーん、そっか。チナミが仕事してる訳じゃないのかあ。いろいろ話とか聞いてみたかったのに」
軽い食事をして、後片付けをして、家を出るころにはユミも通常運転に戻る。
「ユミってそういうの興味あるんだ?」
「そういうの?」
「機械とか、そういうの」
なにせ、天使様でヒートアップして、宗教団体のカフェスペースでお茶をする子である。意外過ぎる。
もっと何というか……可愛くて、きらきらしていて、お洒落な、普通に少女が憧れるようなもの、たとえば高級洋菓子店とかのほうが興味を持ちそうだ。
「……あ、ううん。機械に興味があるわけじゃなくて……」
ほんのり気まずい感じでそう答えて、それから少し恥ずかしそうに、彼女は笑った。
「なんていうのかなあ、その……学校の外のことが気になるとか、そういう感じなの。サキさんのお仕事とかね。チナミはそういうのは……なさそうだね、いろんな友達いそうだし」
「ほー」
まあ、確かに、チナミはどちらかというと、学外の知り合いとよく遊んでいるほうだろう。対してユミは、クラスの女の子たちと、服とかお菓子とかで盛り上がっていることが多い。
(うーん、なんだろう。例の、パステルなお姉さん……サキさん?に憧れて、的なやつかな。もしくは逆で、大人的なイメージにこう、なんか夢があるのかも?)
訊いてみれば、やっぱりケーキ屋さんとか花屋さんとか、学校の先生とか、ああ分かるなあ、といった辺りにぼんやり憧れているそうで。
「まあ、そうだよねえ。ユミはそんな感じ」
「ええーっ、どんな感じってこと?」
「……女の子らしくていいよねえ、ってことだよー」
ふわっとして、きらきらで――小さくて可愛らしい、花やお菓子のような。
「チナミさんは、ほら、こう、ぼけっとしてて女子力とか足りてない感じだからねっ!」
「なんでちょっと得意そうなの、チナミってば」
「悲しそうに言うと、わりとシャレにならないかなあって」
「ダメだよ、悲しいこと言わないで! ……べつに、チナミだって、服とかアクセサリーとか嫌いじゃないでしょ? 学校でそういうお話もするし」
「するけど、自分から情報をチェックしたりはしないし……話題になれば反応するくらいで」
「いいんじゃないかなあ、それでも」
最近ちょっと人気のお菓子とか、学校で流行りそうなワンポイントの色とか、そんな話を続けながら駅まで歩く。
「じゃあねー」
「うん、カフェも、よかったらまた一緒に行こうね」
「それはちょっと」
「ええ……」
さらりと仕掛けられる勧誘をかわして、チナミは改札を通り抜ける。
「うー」
「普通に買い物とかでお願いします」
ホームへ向かいながら、そういう普通の用事でなら遊ぶからね!普通にだよ!と念を込めて手を振った。
流れ去っていく風景を眺めながら、ずっとあの調子は、流石にちょっと疲れるから困るなあ、と小さくため息をつく。
昼間にしては少し暗い空。マンション、一軒家、スーパーにコンビニ、オフィスっぽいビル。ぼんやりと見ているだけだから、はっきりとは言えないけれど、見かけた通行人は傘を持っていることが多い気がするから、これから雨になるのかもしれない。
(天気予報、チェックし忘れたなあ……)
これはまたヨリに怒られるフラグ、と待ち合わせ相手を思い出して、ちょっと行きたくないなぁ、などと思ってしまうチナミだった。
ユミと、そのお友達……いやお姉さん?センパイ?の件も、一体どうしたものやらである。
学校に行けば、普通に挨拶をして、休み時間はおしゃべりをして、たまに休みの日、一緒に出掛けて――普通の、なんてことない、友人のはずだったのだが。
いつの間に、何がどうして、あんなぶっ飛んだお誘いをしてくるような子になってしまったのか。謎だ。チナミにはこれっぽっちも解けそうにない謎だ。
(大人になりたい……学校の外に行きたい? 憧れのお姉さんみたいになりたい?)
少しは頭をひねってみたものの、やっぱり彼女の考えは分かりそうになくて、チナミは結局、またぼんやりと窓の外を眺めて過ごす。
あるいは――彼女は『特別』に、なりたいのかもしれない。
どこにでもいる、可愛いただの女の子ではなく――特別な女の子に。
待ち合わせまでの空き時間、雑貨でも見ようかと歩き出して、もしかしたらとふと思いつく。けれど、チナミにはそれに憧れる感覚が、よく分からない。
特別。普通ではないこと。みんなと違う何か。
「……分からないなぁ」
言葉が、口をついて滑り落ちた。特別ってなんだろう。みんなと違うことはすごい事なんだろうか。
(ちょっと変わってたって、そんなの、べつに良いことなんかないと思うけどなあ)
可愛く手を振るユミの姿を思い返して、ひとつふたつと足を進めながら空を見上げる。
曇り空には、どんよりと重たそうに雲が広がっていた。
(降るかな、雪になると……あ、傘、持ってない……)
このまま降られたら、やっぱり絶対ヨリに怒られるよね……と、どうしようもなく呆れたいつもの目を思い浮かべてちょっと震える。
傘を買って向かおうか、と検討しながらの、ゆっくりとした足取りを、すうっと車が追い越して、停まった。
後部座席のドアが開いて、手が伸ばされる。
停車に気付いたチナミが反射的に立ち止まったのは、ちょうど、その瞬間だった。
――曇り空、雪、いつもの目、夢。
あ、これはやらかしたな、と彼女が悟ったのも、その瞬間だった。