「天使様、見ちゃった、かも」
「……マジで?」
***
02.
例の失踪事件が猟奇殺人に方向転換するかもしない、という刺激的なニュースがテレビから流れてきた日。
「天使様、見ちゃった、かも」
「……マジで?」
困惑の表情でそう告げたチナミに、ヨリは呆然とした呟きを返した。
先日の講義で天使と灰化消失との関係は根拠薄弱、と言われてはいたが、このタイミングでこの話題はかなり不安を煽ってくれる。
「羽っぽいのが見えたのは一瞬だから、まぁ、見間違いかもしれないけどー……」
「金髪で、えらい美人の?」
「んー、距離があったから顔はよく分かんなかったけど、頭は金色だったんじゃないかな」
容赦なく生クリームをつけたシフォンケーキを頬張りつつ、彼女が語ったところによれば。
同級生の女の子と連れ立って歩いていた帰り道、急に飛び立った鳥に驚いて視線を向けた先に”それ”はいた。
時刻は夕暮れが深まる頃。遊びまわる子供もいなくなった公園で、茜の色にまぎれながら、翼を持った人影がひとつ。
見ていたのは、たぶん数瞬の間だろう。不意にどこかから流れてきた鐘の音に気を取られ、公園から目をはずした隙に、確かに佇んでいた筈のひとは姿を消してしまった。
あとに広がるものはただ、何の変哲も無い日常の空白と静寂。
思わず連れの少女に確認をとりかけたが、見たのが自分だけだったとしたら間違いなくヤバい子に認定される。逡巡が発言の機会を奪い、相手もその件について話をしてくる事はなかったため、沈黙を守ったまま別れたのだが……。
「その、一緒にいた子がさー……例の都市伝説を教えてくれた、超アレな女の子でねー……」
「……ほー」
「しかもさー、ちょっと宗教にはまり気味ってゆーか、守護天使様がどーのみたいな事を語る子でねー」
「……ほー……?」
「灰がどーのって都市伝説の元ネタかもしれないってゆー、例の失踪事件? あれ、宗教がらみかもなんだよね?」
「……らしい、ね」
超絶にいやな予感を覚えつつ、ヨリは各所で仕入れたニュースを思い出してみた。
変わらずのペースで、唐突な消失は続いているらしい。ただしこれはネットを飛び交う情報でしかないので、真偽のほどはかなり怪しいが。
宗教が絡んでいるらしい、というのはオンラインでもオフラインでも出回り始めた情報。
カルトに引っかかっての失踪、という方向のフォークロアも広まってきた、という報告が初めに聞いた話で、その後に失踪が拉致へ変わったバージョンが現れたとかなんとか。テレビのキャスターもそんな話をし始めている。
そしてトドメが、今朝のニュース。
都市部某所の高架下で、高校生と思われる遺体が発見された。身元はまだ判明していないが、背格好などからの推測によれば、一ヶ月ほど前から行方がわからなくなっていた地元の高校生である可能性が高く、その方向で確認が急がれている。
メディアが流した情報はその程度だったが、ウェブの波紋はそれより早く、テレビなどよりよっぽど派手に、遺体と失踪とを結びつけて報じていたようだから、人々の不安を加速度的に増加させるには十分だろうか。
一瞬だけ見かけた、羽を持つきれいな生き物。死を運ぶ天使の噂。唐突に失踪するという子供たちと、そこから生まれたという灰化のフォークロア。
個々の出来事は『関係の無い独立した要素』と見ても不自然は無い程度の繋がり。けれど全てを偶然と言い切るには、要素が多すぎることも確かで。
「あー、宗教がどうのってのは、カルト系には疎いからすぐには何とも言えない、って返事で謎。
都市伝説系だけでなら、神隠しっぽいのと、カルトに拉致ってのと、噂が二分されつつあるらしいよ。
で、天使がどうのってのは、やっぱりまだ出回ってる様子はないってさ」
「……あ、そーなの?」
「らしい」
失踪=カルト拉致説が優勢になるようなら、宗教がらみで天使もあり得るだろう、と言ってはいた。しかし今すぐに結び付けられるほどの噂は引っかかってこないのだそうだ。
「一昨日くらいかな、遺体がどうのって事件のほうで動きがあったっぽいから、そっちも少し追っかけてみるって知らせがあったけど。都市伝説のほうは大して変化なしみたいだね」
「一昨日って、事件がニュースになる前じゃないの?」
「俺は今朝のニュースが初めてだったけど、テレビ初登場はそのくらいの時期じゃないかな。ただ、ネットでは何日か前にもう噂されてたんだと。その時は真偽の程が怪しいんで微妙って聞いたけど、テレビで流れたから事実だったって事だろうね」
「ほー。凄いんだねー、ネットって」
「うーん、やり方を知ってればかなり色々とつかめるのは確かだけど。調べ方だの、信憑性の問題だの、フツーに使う分には縁のない技術とかも要るらしいし、一般人にとってはそんなでもないと思うぞ」
「ふーん。そっか」
「現に俺はそんな情報さっぱり調べられないし」
(……というか、奴が何であんなに情報通なのかすげー謎だな)
現在に至るまでの様々なやり取りを思い出してみるに、対人能力はそれなりにあるような印象だが、実はネット依存の引き籠もりスーパーハッカーだったりするのだろうか。しかし、オカルトとハッカーはあまり相性が良くない気もする。
(まぁ、仮にそうだとしても俺は困りそうにないし、どうでもいいな)
敵に回すような真似さえしなければきっと大丈夫だ。
浮かんだ疑問は自己解決。ごく自然な結論に落ち着いたヨリと同じく、ごく真っ当な結論に至ったらしいチナミが話を戻した。
「むー、じゃあ事件との関係は気にすることないのかなー」
「現時点だと、そう思っておくのがいいんじゃないか? 情報を信じるなら、だけどさ」
応じつつ、話に気を取られているうちに冷め、酸味が際立ってきたコーヒーへ苦し紛れでミルクを投下する。ナチュラルに二袋も差し出されてきた砂糖は断固拒否。
「とりあえず信じとこうかなー。そのオカルトさん、ヨリと仲良しみたいだし、だいじょぶでしょ」
「いや、オカルトさんて。あとその信用の仕方もどうかと思う」
彼女の手から砂糖を奪い取りつつツッコミをいれると、すかさずそれを取り返そうとしていた動きがぴたりと止まり、何ともな発言が飛び出した。
「え、だって名前知らないし、ヨリが仲良くする相手ってあんまり外れがないし」
その回答もどうかと思う。
特に後半は色々とおかしい理由な気がするが、追究の愚は明らかなので聞かなかったことにした。発言の前半だけに反応する。
「あ、言ってなかったっけ、名前。小文字アルファベットでuqiっつーんだけど」
「……どう読んだらいいの、それ。うき?」
「どう読んでもいいらしいけど、ユキで統一されつつある。雨期だと梅雨っぽいからじゃないか?」
「あー、じめっぽいのってやだもんねー」
じめっぽいとか、そういう論点で嫌なのか。
「……あー、まぁ、じめっぽいのが好きな奴ってのは、あんまりいないだろうなー」
「こないだ会った時、雪がとけまくってて帰るの凄い大変だったし。靴とか濡れて超じめじめなの」
「翌日は路面凍結でまた大変だったなー。今日の降水量によっては、明日もあちこち凍りそうで参るね」
「ええ、今日って雨が降るのー?」
彼の何気ないぼやきに、意外そうな疑問の声が上がった。
「天気予報が当たればね。……てか、せめて天気予報ぐらは見ろよ、朝」
「言われてみると、高架下でどうのってニュースと一緒に見た気もする」
「何で覚えてないかな、見たのに」
「んんー、眠すぎて忘れた?」
首を傾げつつココアを飲む、という軽い曲芸を披露しつつの返答はつまり、傘なんか持ってるわけないですよな意味である。
(ああもう、相変わらず堂々とアホすぎる……)
ヨリは思わず目線を斜め下へと退避させ、出かかった色々な台詞をコーヒー牛乳と共に飲み下して耐えた。心持ち酸っぱい。
「あー、何か超いろいろ言いたげな動き」
「気のせいだろ気のせい。さ、雨が降り出す前に帰ろうかぁ」
「うわー、極限まで白々しいー」
「やっかましい」
軽く応じつつ窓の外へ目をやれば、もう雲がかなり厚くなり始めている。
会計を済ませて見せの外に出てみると、かすかに雨の匂いがした。
「予報より早く降ってきそうだな」
呟きに反応して空を見上げたチナミも、心持ち焦った声で同意を示す。
「あちゃー、すごい曇り空」
「傘ないなら、ホントにそろそろ帰ったほうがいいかも。降られて風邪引いたりすんなよ」
「そだねー。帰るかなぁ。ヨリは?」
「折りたたみ傘を持ってきた気がするから、本屋に寄ってから帰るわ」
「らじゃー。じゃあ逆方向だね」
「途中で降られたら傘買えよ。またなー」
ひらひら手を振り、雨模様を気にしながら足早に遠ざかる彼女を見送って、ヨリも歩き出した。
道すがら、折りたたみ傘の所在を確かめようと鞄を開けると、突っ込んだまま忘れていた紙の小包を発見。
「やべ、忘れてた」
上着のポケットに傘を突っ込み、足を止めて後ろを振り返る。渡しそびれた紅茶をどうすべきか思案して、とりあえずメールを送る事にした。
【わすれてた:
探してた紅茶、こないだ見つけたから買っといたの、忘れてたわ。
持ってきてたんだけど、いま要る?】
メールに気付いてもらえるかは割と賭だったのだが、今回は数分程度の待ちで返事がくる。
【要るー:
あとちょっとで駅だから、改札の辺りまで持ってきてー】
【おー。:
了解ー】
携帯電話を操作しつつ方向転換。
指定の場所へは、ゆっくり歩いても十分とかからない。そう利用者の多い駅でもないから、今まで何度も集合場所にしているが、合流するのに困った事などなかった。
だから、待ち人が一向に見つからないなど、そんな事態はまず無い筈で。
「……」
引き返してから駅まで数分、念のため周囲を一回りして十分弱。到着した旨を知らせたメールにはまだ返信なし。
痺れを切らしてかけた電話は、十数回のコールを経て留守番メッセージに切り替わる。
脳裏を過ぎるのは、ここしばらく付いて回っている噂。
渡し忘れた紅茶を渡そうと引き返したら、居るはずの待ち人が見つからない、という状況は『返し忘れたCDを渡そうと追いかけたら、姿が消えていた。』に随分と似ていて。
(いや。道に迷った……は、無いにしても、予想外の何かをやらかしてる可能性はあるだろうし)
例えば、居座っていた喫茶店に忘れ物をしてきた、とか。
ただの偶然だと主張する心は、明らかに類似点から目を逸らしたがっている。
考え込んでいたせいで、一瞬、手に伝わった振動が携帯電話からだと気付かなかった。
「っ」
慌てて画面表示を確認して、期待とは違う名前を認識した途端、落胆より不安が強く湧き上がる。
新着メールの通知。差出人は”uqi”。
逡巡の後に開いたメール本文には、不吉にも程があるメッセージが綴られていた。
【caution:
天使と灰奇談の件、あまり深入りしないほうがいいかもしれない。勘だけど。
符号が揃い過ぎた。】
(ちょっと、待て……っ!)
おそらく無関係、という話から一転した警告に、比喩でなしに血の気が引いて貧血を起こすかと思うような衝撃。
【Re:caution:
は?】
とりあえず超簡潔な返信をする。
震え始めた気がする手で、発信履歴からもう一度コールをかけてみるが、繋がった先はやはり留守番サービスだった。
じっとしていられず、急ぎ足で駅からカフェまでの道を辿り直す。
通りすがりの野良猫に引っかかって和んでいる、とか。気が変わって傘を買いに行った、とか。可能性はいくらでもあった。
こないだ会った時、どうもヤバそうだからと新しいストラップを買っていたし、古い方がついに壊れてどこぞで落としたりしていたら、うろうろ探していそうな気もする。
頭の中に思いつく限りのケースを羅列し、いくつかの店を覗いてみるが、成果はなかった。
焦りを煽るように、空は泣き出す寸前の色合いで薄暗く、通りを行き交う人の数も随分とまばらになってきている。
手にした携帯電話も沈黙するだけ、三度目の呼び出しにも応じる気配はない。
大して距離があるわけでもない道のりは、あちこちに目をやりながらでも踏破するのにさして時間はかからず、せわしなく動かしていた足を止めた彼のすこし前方に、ほんの先刻まで二人で居座っていた喫茶店。
見つからない筈がないのに、探している人影は見つからなかった。
段々と脈拍が上がってきて、けれど反比例して指先はひどく冷たく、強張ってくる。
(たまたま、擦れ違いになっただけ、だろ?)
祈りにも似た気分でまたコールをかけようと、手許に意識を向けたとき、目を引く鮮やかな金色が視界の端を掠めていった。
「……っ!」
反射的に顔を上げ、その色を追う。眺めた景色の中に姿がないから、おそらく直近の角を曲がったのだろう。
判断するなり、携帯電話をしまって全力ダッシュ。
空模様のおかげで通行人が皆無に近い状況をいい事に、そこそこ長いストレートを一気に駆け抜けてコーナーへ突っ込む。
視線の先には、見覚えのある金髪がいる……筈、が。
「…………」
見えた光景は、ひょっとしてアレ『高級外車といえば』の代表格的メーカーだろうか、な車の後部座席に、ヒトと思われるフォルムの物体が押し込まれてドアを閉められた瞬間だった。
黒塗りの車に消えた誰かさんと、どう好意的に解釈しても『某所の御曹司もしくは王位継承者とかがお忍びで街に出ちゃったのを強制送還しにきたところ』です、というような甚だ非現実的な仮説しか出てこない雰囲気で車のドアを閉めた黒スーツの男以外、視界に人影はない。
「……………………」
物凄くヤバイものを見てしまった気がする、と硬直する少年に気付いたのか、その男がサングラス装着済みの顔を向けてくる。
見咎められたと確信したヨリの脳裏に、こんな場面で言われそうな口上が幾つか浮かんだ。身の安全は保証されそうにない台詞ばかりなのが非常に残念である。
「あ、ほら、見つけたよ」
ところが、場に響いたのは、口封じを仄めかす宣告や目撃者を忌む悪態ではなしに、少しばかり嬉しそうでさえある声だった。
「っ?」
音源は背後。後方を振り返ると、角を曲がってすぐの位置、何十秒か前に自分が通り過ぎた辺りで少女が微笑している。
「こんにちは」
向けられた視線を恐れ気も無く見返して、謎の人物はごく自然な気配で笑いかけてきた。
続けて、現実離れしているというか、むしろ地に足がついていないっぽい空気をまとって、言葉と共に軽くお辞儀する。
初対面のご挨拶としてはしつけの宜しい部類に入るが、どう考えてもTPOは弁えていない振る舞いだった。
「…………」
挨拶にもお辞儀にも全く応答できずに立ち尽くすヨリと、同様に混乱しているのか、あるいは事情を把握している余裕の表れか、反応らしい反応を見せずに無言で佇むグラサン黒スーツ。
どちらの様子も気にしない風情で柔らかく笑っている少女。
状況を分析しようにも、あらゆる要素がひたすらに奇怪で手のつけようがない。
そして、困惑と不審とほんのり引き気味な空気、で混沌としてきた状況を更にカオスな展開にすべく、新たな闖入者が登場する。
「ああ、いましたね。お疲れ様です」
適度な湿気と重苦しさが漂った沈黙を、どこか営業トークを連想させる声が破った。
少女の後方、ヨリが駆け抜けたのとは逆側のコーナーから、角を曲がって二人目の黒スーツが姿を見せる。こちらはノーネクタイに色なし眼鏡着用、ぱっと見は就職活動中ちょっと休憩モードの大学生、といった所だろうか。
青年は場に居合わせた面子を一通り眺めると、黒塗りの外車を目で指し示し、その近くに待機している一人目の黒スーツへ声を掛けた。
「状況はいかがですか?」
「最優先作業は完了。あとは……」
答えながら黒眼鏡が顔を向けた先には、ヨリ。
心得た風情で、青年が見事なビジネススマイルで応じる。
「はい、次はそちらの処理ですね。了解です」
「…………」
ひょっとしなくても、これはやばいだろう。
いまひとつ頭が働いていないが、とりあえずその結論だけは即座に出てきた。事情はさっぱり分からないが、きっとやばい。確実にまずい。
視線前方には絶対まともな会社員じゃないだろうという二人組、後方には黒塗りの外車とエージェントっぽい黒スーツがスタンバイしている。
右には緑の金網で区切られた駐車場が、左には集合住宅の壁があり、逃げようにも退路はなかった。
やらかすとするなら、左の集合住宅に突っ込んで助けを求めてみるくらいだろうか。
「さて」
いたって軽く、相変わらずのビジネススマイルが呟く。……友好的に見えなくもない笑顔を、きっちりヨリへと向けて。
「それでは本題に入らせて頂きましょうか」
一切まるきり変化のない穏やかな声と共に、その右手が慣れた様子でスーツの内ポケットへ向かって動いた。
(まさか、こんな所で発砲事件とか、ある筈が)
祈りと大差ない希望的観測が浮かんで、消える。
状況の尋常さがどれほどのものかを考えてみれば、楽観できるかなど、分かりきった事。