“――ある晴れた冬の朝、目の前に天使が現れた。”
突拍子もない展開から、少年と少女の妙な日々が始まった。
***
01.
――ある晴れた冬の朝、目の前に天使が現れた。
「…………」
玄関を出たばかりの位置で足をとめて、ヨリはそれを観察してみる。
首都圏では珍しい量の降雪を記録した日、午前の日差しは広がる銀世界を駆逐するにはまだ弱く、視界には見事なまでに白が広がっていた。
その片隅で”それ”は路肩の雪ダルマに顔面を埋め、背中の羽をこれ以上ないくらい力尽きた感じに垂らしている。
イイ感じの衝突音がしたと思って目を向けた先にいたUMAは、今のところぴくりとも動かない。
(うーん……死んだかな。窒息してそうだし。)
とっさに出てくる電話番号は警察か救急か消防で、事件性があるかどうかだと警察の出番はなさそうだ。生きているなら救急でもいいだろうか。
しかし現代医学がいかに進歩していようとも、有翼人を診察した事のある医者などいるとは考えにくい。
残った選択肢は、消防。
まぁ、犬猫のレスキューも担当なら、雪ダルマと衝突事故を起こした謎の生物だって管轄内だ、多分。
携帯電話を取り出し、番号を打ち込もうか迷っていると、未確認生命体が動きを見せた。
羽が一度だけばさりと揺れて、まるで初めから無かったかのように消失する。だらりと沈黙していた腕が持ち上がり、ぺしぺしと雪ダルマを殴打、状況が変わらないと察してか、ぐっと力を込めて顔面を救出しにかかった。
程なく、ドッキングが解除されて両者が引き離される。
……が。どれだけ見事に激突したのか知らないが、よほど頑強に埋まっていたらしい。今度は勢い余ってひっくり返った。
「だっ!」
素晴らしく痛そうな音がする。
実際にかなり痛かったようで、後頭部を強打した阿呆は半回転してうつぶせになると、頭を抱えつつ地面に蹲った。
淡い色合いの金髪が雪の上に広がる。
「……っ……」
しばらく悶絶してから、ゆっくりと上半身を起こしたその生き物は、地を這うような声音で呪詛か怨嗟かという勢いの、殺意が垂れ流しなうめきを漏らした。
「あんの、くそボケが……っ、五万二千回程度死んで来いや……!」
(いや、死にすぎだろ流石に)
心に浮かんだ疑問は聞こえる筈もないので、当然ながら回答が示される訳もなく。
やたらガラの悪いそいつは、ギャラリーの突込みなど微塵も察した気配は無しに、顔面を押さえつつ立ち上がる。
「っ、あー……」
ぼやきつつ軽く頭を振った、その瞬間に視線が絡んだ。
「「…………」」
メディアの中でさえあまり見かけないような、綺麗な顔立ち。どこまでも澄んだ天上の青、髪同様に淡い色の碧眼が、真っ直ぐにヨリを捉えて一度だけ瞬く。
ちっ。
限りなく鬱陶しそうな表情と共に、どこまでもガラの悪い舌打ちが漏れた。見た目がまさに”天使”とでも形容すべき見事さだけに、ギャップが超絶に嫌な感じだ。
つかつかと近付いてくる歩みを半ば呆然と眺めつつ、何だか凄く事件性が出てきた気がするから、警察に電話するのが正解だったか、と軽く悔やんでみたりみなかったり。
「いいか、そこのパンピー」
がっしりヨリの両肩を押さえた美人さんは、相変わらず見た目を裏切りくさったチンピラ風の物腰で凄む。
「常識的に考えてこの状況はありえないわけだ。そうだろう。従ってこの状況は現実でないと判断するのが妥当ってもんだ。故にお前は何も見なかったか、さもなきゃ年甲斐も無くボケて白昼夢を見たっつー結論が導かれる。この見解に異存は無いな?疑問は覚えるな。とりあえず納得しろ。そして正気を疑われないように沈黙を守っとけ。それで万事がうまくいく」
耳に心地よい声質でありながら、清涼さがひとカケラも感じられない、という不思議。
「…………」
「ひとまず家に帰って寝直せ。それから一日をやり直すのが確実だ」
するりと入ってくる言葉と、怒涛の勢いで繰り出される理屈に口を挟む隙などなく、流れで身体を反転させられても抵抗などできず、大人しく玄関に向き直ってしまった。
「じゃあな」
言葉と同時に背中をどつかれる。よろけ、体勢を立て直して振り返った時にはもう、視界の中に人影は見当たらなくなっていた。
デスマスクさながらの凹みを残した雪ダルマがなければ、確かに夢だと思ったかもしれない。
「……というわけで、それから雪ダルマを補修してみて、ここに駆けつけました」
「ほー」
チナミが返す、全くやる気の伺えない相槌を聞きつつ、ヨリは信用されてもされなくても微妙だなー、と何とも言えない気分で会話を続ける。
「とりあえず茶でもしばこうか」
「そだねー」
いつもの事だが、彼女の返事は怒っているんだか面白がっているんだか何も考えていないのか、分かりそうで分からない。
まぁ大概は分からなくても問題ないし、今回も割と問題なさそうだ。という訳で、適当に食事ができて適当に居座れそうな店を探す事に注意を向けた。
大通りをぶらついて数分、程なくチナミのゴーサインが出る。
「あー、そこがいい。フレンチトーストが美味しいんだよ」
「了解ー」
入った店は地元密着系のカフェチェーン。積雪のせいか、それとも朝食にも昼食にも半端な時間のせいか、客足はあまりよろしくない。居座るにはぴったりの環境だった。
「フレンチトーストと」
「サイズはLで」
端的な指令は、頼む飲み物などひとつしかないだろう、というチナミ的鉄則の賜物だ。トーストにLサイズがある訳ではない。
「……ホットココアのLサイズ。他に何かある?」
「んー、チョコチップスコーンも食べたいー」
「じゃ、それひとつ。あとホットコーヒーのMをブラックで」
「ヨリ、食べないの?」
「いや、どう考えても食べきれないだろ、それ。残った分もらうから」
「らじゃー」
会計は遅刻した側の全額負担。席は目立たない奥のほう。
席についてからしばらくは、フレンチトーストとスコーンを交互に食べつつココアを飲むという、胸焼けしそうな甘味コンボが炸裂した。
「……なぁ、それ甘いのかどうか分からなくならないか?」
「んーん」
「……すげーな、相変わらず」
「んー」
容赦なくメープルシロップをかけたトーストを頬張るチナミはご機嫌そうだ。
取り分けられていたスコーンをかじりつつ食べっぷりを眺めていると、ヨリの眼前に、余ったらしい一切れが差し出される。
「いや、せめてシロップの少ないところを……」
「だいじょぶ、これ裏はかかってないよ。シロップかかってるの表だけだから」
「無理です先生。流石に食えません」
「むー、美味しいのに」
「甘すぎだって。シロップの味しかしないだろそれ」
「そんなことはない」
言いながら、空いたスコーンの皿へ、無傷に近いフレンチトーストが乗せられた。この程度なら食べられる。
「でもあれだねー」
「うん?」
「ヨリ、甘いもの苦手だし超現実的なのに、天使は見えたんだ。どっか調子悪い?」
甘いものと現実主義のつながりが分からん。
「確かに甘いものは苦手だしどちらかといえば現実的だとは思う。調子は悪くないのに何故か妙な有翼人に遭遇したような気もする。が、ごめん何つながり?」
「え、だって天使様とか何とか言い出すのって、甘いもの好きで夢見がちなコの得意技っぽいから」
「あー。それ繋がりか」
「んでも、都市伝説はヨリっぽいから有りかなぁ」
更につながりが分からない。
「……うん?」
「あれ、知らない? そっち系ってけっこー得意じゃなかったっけ」
「俺が得意というか、知り合いがそれ系なんだよ」
ちょっと苦い気持ちになるのはブラックコーヒーのせいだと思いたい。
彼の拘泥には頓着せず、チナミはそのまま話を続けた。
「まさに甘いもの大好きで夢を見まくってそうなコが言ってた話だから、どこまで原型とどめてるかは謎だけどー、何かそんなような話があるらしいよ。
死を運ぶ天使がいるとか、そんなん」
「告死天使?」
「や、そっち系は知らないから、そんな専門用語を出されても」
「ぐ。ああ、今ものすごく何かに負けた気分だ」
「素直に博識ぶりを喜べばいいのに」
「博識っつーほどでもないだろ。ゲームとかにも出てくる名前だし」
(てか、オカルト知識の多さを誇る人間になる気はカケラもないんですが)
心の中で呟きつつ、彼は友人を思い浮かべる。一般常識でも述べるかのようなナチュラル具合で、どこから仕入れてくるのかさっぱり分からない闇知識を披露してくれる謎の人物。
情報量には感嘆するが、その博識ぶりに憧れるかと問われれば答えは否だ。
「何だったっけなぁ、人間の生き死にを司るとか、そんな感じの天使だったと思うけど。メール投げとく?」
「あー、例の人?」
「そー。謎のオカルトマニア? マニアとかオタクとかってイメージよりもさっぱり系な感触だけど」
「さっぱりって……どんな系?」
胡乱げな顔で小首をかしげるチナミに、ヨリが同じように首を傾けつつ説明を足す。
「偏見かもだけどさ、マニアってやたらと知識をひけらかしたり、得意な分野の話題に固執したり、粘着質なイメージがないか? それからすると超あっさりなんだよなー。聞かれない限り答えないし、余分な派生知識とかも自分からは披露しないし」
「んー、分かるような気は……するかなー」
「気軽に話が振れるタイプだな。で更にまた、答が知識のない奴でも分かるような内容だから、つい質問が弾んだりしてさー」
……気がついたら、自分もそれなりにそっち系の単語とか覚えてきちゃった訳で。
「……あれかな、実は巧みにそっちの世界へ誘導されてんのかな、俺」
「だとしても、チナミ的には面白いからよし」
「…………」
即答でうなずく彼女を無言で眺め、ヨリはとりあえず携帯電話を取り出した。
「向こうさんPCアドレスだから、すぐには返事こないと思うけど。まぁ聞いてみるか」
「携帯のメールアドレス、聞いてないの?」
「持ってないとか言ってた。ネット上の知人には教えない主義なんじゃないかな。マジで携帯を持ってないって可能性もあるけど」
「いやー、今のご時世、持ってないって事はないでしょー」
「携帯機器は相性が悪いから苦手だとか、よー分からん事は言ってたぞ。……死を運ぶ天使の都市伝説、で通じるかな」
「その天使に会った人は羽になって消えちゃうんだってさ。でもさ、会う人みんなが即で消えてたら目撃者が残らないはずだから、その辺ですでにデマっぽいよねぇ」
「何か選別条件があるんじゃないのか、そこんとこはさ」
携帯メールを打ちつつ応じて、残りのコーヒーを飲み干す。
「送ったぞー。運がよければ今日中、運が悪くても次に会う時は返事がきてるかな」
「ありがとー」
「んで、まだ居座る?」
ヨリ的にはありえない感じで食い尽くされたフレンチトーストの皿を眺めつつ問えば、幸せそうにココアを味わいつつ思案したチナミが首を振る。
「もーいい。これ以上ここで和んでたら買い物いけなくなりそうだもん、精神的に」
「俺もうすでに気力がつきつつあるから大丈夫」
「そか、じゃあ凄い勢いで買いに行こう」
「……らじゃー」
戦果はマフラーと紅茶とストラップ。
チナミは紅茶屋の袋からティーバッグの小箱を取り出し、ヨリに向かって差し出した。
「ほい、お土産ー」
「うん、要らないから」
にこやかな笑顔に笑顔を返し、全力全速で全否定する。
「……人の好意を無下にするの、よくないよ」
「キャラメルとバニラのフレーバーティーだろ、それ。どの辺りに好意があるのか超謎だし」
「えー、美味しいじゃん」
「展開的に?」
「いえす。チナミ的には味もグーなんだけど」
「俺的にはありえないから」
「ちぇー」
飲ませたくて仕方のなさそうな顔。ならばと手荷物から武器を取り出し、彼も応戦する。
「甘味好きのチナミさんにはこのチョコを進呈しますからして、そのけったいな紅茶をしまってください」
「けったいって。むしろ紅茶しまうからそれ進呈しないで欲しいな」
「えー、美味しいのに」
「展開的に?」
「うん。俺は味的にも美味しいと思うけどな」
「ビターチョコって辺りで割とありえないのに、中身がコーヒー豆とか超ないし」
「この苦味と甘さがいいんだよ。あれだ、カフェモカだと思えばうまそうじゃないか?」
「無理無理」
「いや、ミルで挽いて淹れてみろ。意外といけるかもしれないし」
「やー、無理無理」
「食わず嫌いは良くないと思うよ」
「……ふつーの紅茶あげるから、その邪道チョコしまってください」
「邪道て。まぁ紅茶に免じて許す」
ぼやきながら新たに差し出されたティーバッグの包みを受け取って、それをしまうついでに持っていたチョコも鞄へ放り込む。
「ごっそさん」
「ほい。したらそろそろ戻るわー」
「おう、またなー」
駅へ向かって歩き出した彼女を見送り、ヨリも踵を返した。
空を見れば僅かに夕焼けの気配、日が落ちきる前には帰宅したいが、軽く寄り道する程度の時間はあるだろうか。正確な時刻を求めて携帯を取り出すと、新着メールの通知が出ている。
差出人を確認して、今日の寄り道は諦めた。浮いた時間は講義の拝聴へ充てることにする。
家路を辿りつつ、自身の出したメールを確認してから新着メールを読み、返信。
【講義よろしく:
新手の都市伝説かな、死を運ぶ天使がいるとか、そんな感じの噂があるらしい。
出会った人間は羽になって消えるんだとさ。
前に聞いた告死天使あたりが似てるのかと思ったんだけど、その辺どうよ?】
【Re:講義よろしく:
講義ってほど詳しい話は無理(笑)
ただ、オリジナルの告死天使は無関係じゃないかな。『告死』っていうのは余命宣告とかに近いニュアンスだし。あれの仕事は生死の記録をつけるだけで、それ自身が命を左右する存在じゃなかったと思うよ。
命を支配するのは神であって天使じゃないから、天使が勝手に人間を殺したり生かしたりするのはご法度。
人が羽になって消える、って噂のほうは、多分『灰奇談』の派生系だと思う。発火したわけでもないのに人間が灰になる、とかいうフォークロアが最近でてきてるから。
灰がどこかのタイミングで羽に変わって、連想で天使が出てきたのかもしれないね。】
【Re:Re:講義よろしく:
てことは、告死天使はほぼ畑違いだし、そもそも天使が関係してるってのが根拠薄弱か。
『灰奇談』とやらには、そんな話は全然ないんだ?】
携帯をいじりつつ、解けた雪でぬかるみ切った道を歩く、というのは意外と難作業だった。
何とか大した事故もなく帰宅したのは、うっかり水溜りを踏みつけて、話の続きは家のPCからにしよう、と固く誓ってほどなくの事。
靴をベランダに干して、濡れた服は洗濯機へ叩き込む。邪道チョコの奮闘でゲットした紅茶を淹れる合間にPCとアプリケーションを起動して、お気に入りのアッサムティーを味わいながら待つ事しばし、割合に早く待ち人はやってきた。
【どうも。お待たせ?】
ポップな通知音と共に送られてきたメッセージへ、いつもの調子で返答。
【いや、そんなには待ってない。PCつけたばっかだし】
【割と遅かったね。忙しくなってるならレス飛ばしてもいいよ】
【いや、今はもう平気。茶の用意とかしてただけだから】
相手のレスポンスがほぼ即時なのと、やりとりするメッセージが多いのとで、発言を知らせる効果音がややうるさい。設定を変更して音を鳴らさないようにすると、耳に届くのはPCの稼動音くらいになる。
音楽でもかけようかと思わないでもなかったが、生来こういった静けさが嫌いで無いことと、流れるメッセージの内容とで、その案はかなりどうでも良くなった。
【メールの続きだけど、
今のところ、天使がどうのって話にはなってなさそうだよ。
まぁ、全く関係ないのかって言うと、灰と羽と天使の接点が皆無って訳じゃないから微妙だけど。
でもオカルト系の考察すれば繋がるってだけだからね。】
【繋がるなら、それなりに関係はあるんじゃないのか?】
【どうだろうね。
都市伝説で遊びたがる手合いはむしろ、そういうネタには疎いんじゃないかな?
フォークロアって、大抵は子供たちの想像力から出た御伽話だと思うんだよ。
感性から創り出された噂と理屈に寄った意味づけとは相性が悪い。】
【灰奇談と天使の関連付けは、理論的過ぎるって?】
【と、思うよ。
だから『灰奇談』が天使や羽を織り込んだものって可能性は低いかな。
『灰奇談』の噂も、感性寄りのプロセスで生じた感じが強いし】
【って事は、元ネタに心当たりがあるわけだ】
【出回ってるのが首都圏で、特徴は『消失する』って現象と『突発的に起きる』って点。
あとは、噂をしているのも遭遇した事になっているのも、大体が中高生だから、かな。
多分、例の連続失踪事件が基盤になってるんじゃないかと思うよ】
【……あー、あれかー】
登下校、休日の外出、バイトの行き帰り、そんな珍しくも何ともない日常の中で、同行者の目が逸れるわずかな時間。いくらでも起こり得る空白を見張っていたように、人が消えるという。
たとえば、家まで数分という所で別れた友人に、返し忘れたCDを渡そうと追いかけたら、姿が消えていた。
あるいは、一緒に買い物に出かけて、雑踏ではぐれた連れと連絡がとれなくなった。
もしくは、バイトに向かう途中で同じシフトの同僚を見かけて、けれどそれきりバイト先で合流する事はなかった。
衝動的な家出にしては唐突で、けれど誘拐だと思うには鮮やか過ぎる消失、それが事件の特徴。
さほど地域が集中している訳でもないし、事故とも事件とも断定できないが、唐突さは恐ろしいくらいに似通っている。ニュースが反応し始めたのは最近だが、オンラインの情報網はそれ以前から騒いでいたらしい。
【このご時勢、自宅に帰らない少年少女なんて、いくらでもいるけどね。
それでも『子どもの消失』はいつだって、フォークロアのファクターになるし】
ファクター。
モニターに映るその単語は無機質な気配で、現実に誰かがいなくなっている筈なのに、どうした所で自分たちの世界とは繋がらなかった。
そのまま終わるはずだった話は、予想外の報告で予想外の方向へ展開する。