gottaNi ver 1.1


20.ただの腕時計が名前が電話番号が
  特別なものに変わるなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていた

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 たとえば、もう忘れてしまいそうなくらい昔の、茜色に染まった通学路や、狭い部屋の小さな窓から眺めた雷鳴や、繋がれた指先の温度。
 そんなものは全部、夢の中にしかないのだと。
 十分に広い部屋で独り、整わない呼吸を無理矢理に抑えながら、漠然とそう、思っていた。

 決して狂わない、規則正しいスケジュール。毎日を狂わせないための、常に自動修正されるデジタル表示の日付と時間。
 夢さえ覚えてはいられない、薬任せの強引な眠りと目覚め。
 どこかのコンピュータに制御された扉の鍵、どこかで管理されている入退室の記録、どこかで決められている永遠の日常。
 緩やかに絶望は重くなって、密やかに渇望は強くなって、そして明らかに、希望は揺らぎ始めていて、未来はどんどんあやふやになる。
 生き苦しさは日に日に増して、いつか、自分の心なんて見えなくなるのだろうと思った。いっそ、望みなど失くなってくれれば、こんな苦しさは忘れられるとさえ期待した。
 願う事などやめてしまって、知りもしない誰かの望みに従っていれば、いつか全部、終わるのだと。
 淀んだ空気はいつまでもそのままで、流れを変える風など永遠に吹かないのだと思っていたのに。

 動いた空気が、放った力を受け流す。風を従えてみせたその人は、笑った。
 自分と同じように、風を動かせる力の持ち主。けれど相手は、自分よりずっと強く、自由に呼吸をして、笑う。
「……道を見失った鳥は、導さえ見出せば直ぐにでも空へ還る。足りないのは望みだけだよ」
 それひとつさえあれば強さも自由も手に入る。
「欲しいと思うなら、望む事だ」
 告げられても動けなかった自分の手には、小さく畳まれた紙がひとつ残された。
 その先、逡巡の中で出遭ったのは、自由になろうとする人。
「時計、持っていないんです」
 その手に自分の腕時計を乗せる。
「どうせ、捨てるものだから」
 久しぶりに笑った。
 心が決まり、捨てられなかった紙を広げて、印刷されている番号を押す。
 手に入れたのは、居場所と、誰にも支配されない名前。

 ただの腕時計が名前が電話番号が、特別なものに変わるなんて、馬鹿馬鹿しいと思っていた。


UP:2018-08-31
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