戻って入ってきた扉を開けると、廊下だった空間は夜のテラスへ置き換わっていた。
無人のテーブルにカンテラが一つ取り残されて、離れて置いてある書物をゆらゆら照らしている。その装丁はさっき届かず諦めた本によく似ていた。そっと触れる。
天鵞絨の表にタイトルはなかった。まあそれも、ここではよくあることだった。
開いた本。
中には、つい数日前に手を伸ばそうとした本の、同じ世界の、いつかどこかで、が納められた別の物語の断章たちが眠っている。
ぱらと流して、あきらめた。この解読は取り掛かるには早すぎる。
ふと揶揄する声が「ライブラリ、だからな」と夜気を踊らせた。
「コメントの欠けたライブラリ、関数群」
ここは《図書館》なんて可愛いものじゃない。
コメントもドキュメントもないぐちゃぐちゃな関数の集まった《関数群》が「ライブラリ」なのだ。
使ってみないと分からない、中を見てみないと理解できない、そういうものの巣窟。
書架の隙間に埋まった曇り硝子の先で人影がゆれた。ここでも時折、こうして誰かの気配に触れることがある。それが同じ訪問者なのか、それとも決して出会うことのできない、ここに住まう何かなのかは分からない。
ここでは誰もが等しく、孤独と連帯を共有している。
果ての見えない螺旋を登る。
続く階段の傾斜にそって天へ伸びる書架はどこまでも静かにそびえ、知識と物語を永遠に追いかける愚かな訪問者を嘲謔するようだった。
構わない。尽きることのない断章を追いかけ、繕い合わせ、紡ぎきれずに果てるとしても。その永遠こそが我々の求めるもの。
休憩場所にと目星をつけていた温室は、今日は晶洞になっていた。相変わらず訳が分からない。
天蓋に穿たれた穴を何かの結晶が覆って、そこからは青い光が落ちてくる。水底のような静謐と群青。
ちら、と真白い魚がいると思えば、どこかから射し込んできた光の欠片だった。…眠いらしい。
揺れる水面の奥に書架が深く続いている。分かっていてもつい伸ばした指は、やはりぬるい水に濡れただけだった。
決して届かない本たちを映したそれが、せせら笑うように波立った。
悔し紛れに思い切り手を差し入れ、掻き回して波紋を広げると、何かが触れる。
おっかなびっくり掴んで引き上げた手のひらに、濡れてにじんだページが張り付いてきた。
……読めない。余計に悔しい思いをしただけの出来事だった。
眠い。
昨夜ふと手に取った本のせいだ。まだ迷い込んだばかりの頃、知らずに翌日また続きを読もうと手放してしまった物語。
ここは読みかけでも容赦なく行方知れずにして、素知らぬ顔で別の物語を差し出してくる。読み終わってからでなければ危なくて本を戻せない。
だから最後まで読もうとして――ああ、眠い。
密やかに、高く遠く鐘が響く。顔を上げて辺りを見回せば、ついぞ辿り着く順路を明らかに出来なかった、古めかしい鐘楼が目に入った。
椅子を立ち、一歩。
不意に、響く音は途切れ、またたいた視界には静かな温室と花の色が映る。振り返るが、いた筈の四阿はもう、読みかけの断章を置いたまま消えていた。
ふらふらと、芝生に線を引くように伸びる小径を歩く。
いつ、何の拍子に、何を見失うか、まったく予測不能なここで手にした書物は、夜を徹しようが、目が霞もうが、とにかく読み切らねばならなかった。眠い。睡魔を退けようと散策を続けると、横手に広がった木陰から覗く四阿の角が目についた。
往きて語られるものあれど、還りて語るものない、無名の都。此処には、今日も見果てぬ書たちが並ぶ。
無限の叡智をおさめた殿堂、と称される一方、知識の万魔殿、無知喰らいの巣、とも呼ばれる魔の領域。
──迷宮書架、すなわち《ライブラリ》が、その名であると知るのは、我々だけだ。
日も高い時分、荒れた小さな温室で、表紙の欠けた書と出会う。ここで読むには難があろうと、しばらく小径を歩いて見えてきた扉に手をかけると、そこには夕暮れの薄闇が垣間見える小窓と、まだ暖かさを宿したままの部屋に、軽食の準備が一式、整っていた。
……今夜は、落ち着いて本を読めそうだ。
自らの知識を贄として、この《ライブラリ》からは情報を得られる。
季節も、昼も夜もあるけれど、それらの一貫性は『此処』にはなく、扉ひとつ、眠り一度、その程度の断絶を跨いだ途端に、時空は何食わぬ顔で別の様相を踏み込んだもの達に示してみせる。
夜は瞬きの間に明け、朝はすぐ夕餉へと。
ここに管理者のような存在がいるのかは、定かではない。物音や人影と出会うことはあったが、対面したことはついぞなかった。
だが折に触れ、開いた戸口の先には、食事や寝所が整えられ、使えとばかり待ち構えている。大抵はその後、有価物や編纂中の資料が、手許からふといなくなるのだった。
……ライブリ、ライブリ。呼ばれ使われ組み込まれ、世界の総てに通ずる書架よ。己のみでは何も紡げず、呼ばれ使われ組み込まれ、ようやく十全となる関数群よ。ライブリ、汝は──世界の語り部なるや?
……時折、そんな歌声が、ここには流れる。
書架、関数群、世界……。読み解くべき書はまだ多い。
雨音が林立する棚の隙間を渡る。いつの間に降り出したのだろうか。
視線を上げると、外は暗く、窓は流れ落ちる水をまとって波打つ暗幕のように揺れていた。
その揺らぎの中に刹那、書架を兼ねた木々の森が映る。だが駆け寄って伸ばした指にはただ、硝子の冷たさと雨粒の振動が触れるばかり。
見えども到れぬ書庫の樹海、新たな断章の宝庫にまた行き損なったことを理解して、ため息とともに机へ戻る。
ついさっきまで読み進めていた紙片がそこから消えている現実に直面し、いっそうの落胆に襲われるのは、直後のこと。
ああ、本当に、ここでは何一つ確かなものなどないのだろう。
ひそりと、足取りに似た物音が耳をかすめて消えた。背表紙を辿るのに没頭していた思考が引き戻される。──気配が行き合いこそすれ、決して出会うことのない誰か。
ああ貴方もか、と知らぬ誰かに微笑んだ。
くる日もくる日も……狂うまで、我々はこの書痴の樹海をひとり彷徨い歩くのだろう。
凛と、硝子の震えるような音。
誘われて小径を外れて行った先には、書の梢があった。樹皮は、古びた装丁を幾重にもつなぎ合わせ綴ったように、枝は、数多の栞を捻り継いで象ったように。
この木が芽をつけ、葉を繁らせ、花が咲いたのなら、顕れるのは何を記した断章だろうか。
閉じた本を書架に戻す。落丁は多かったが、大筋は追いやすい一冊だった。久方ぶりの充足感。
息をひとつ、思わず酷使した目を閉じてしまえば、あとはいつもの気紛れだ。……ああ、これはまた、意地の悪い。
予感に従って開いた視界に差し込むのは、疲れの溜まった目に眩しい木漏れ日。その影に、ちらちらと文字が踊っては消えていた。
古めかしく仰々しい、厳めしく美しい扉。塗装は剥げ落ち錆を纏い、だが目を奪う精緻さだけは、時を経た今も一片の瑕疵さえない。
蔵にしては華美、住まいにしては厳峻…そんな様相にいくらか気後れしながらも、新たな書架への道に対する好奇の思いには抗えない。仕方ない、それが『此処』だ。
錆ひとつさえ損なってはいけない気がして、そっと、そうっと、指先から触れてゆく。取っ手のない構造に戸惑いながら、押すのか、引くのか、薄く力を加えながら探ってみると、不意に手に返ってきていた反発が消える。
予兆は絶無、音一つなく……開こうとしていた扉の先に、抜け出していた。
空、空、空。
空(から)の空間に空(くう)と空(そら)がふわりと満たされ、空の部屋には、天井近い場所の格子窓から、光の彩虹が落ちている。
ベルベットだろうか、乗せた足先がふわりと沈み込む床の感触に、思わず進めかけていた足を引き戻す。
……書架は、なかった。
ただ、かつての名残か、書架としての意地か矜持か。
降り積もる彩虹はつかの間、うっすらとした破片にいつらかの書の影を映してから、そうっと絨毯に受け止められては砕け、消えていく。
ああ、どうしてこう──焦らすように、試すように、この場所はこうして彷徨う書痴に歯噛みをさせる。
ゆらりと壁の灯火が影を揺らす。その刹那に、床の影が文字を綴る。これは流石に、読み取れない。
書、あるいは頁の形に留められ、触れることのできる記録は幾許(いくだ)もなく……しかしそれですら読み切るには多すぎるだろう。
それでも、書架を巡る足取りが止むことはない。
葉擦れのさざめきで目を覚ます。
昨夜、見えども掴めぬ書庫の影に振り回され、すっかり困憊して倒れ込んだのは、そんな彷徨を見透かしたかの如きやわらかな寝台……だった、はずだが。
身じろいだ肌に触れたのは、爽やかな下草の揺れる気配と、夜の名残のような敷布のみだった。
目覚め、覚えのない風景にしばし思考が空回る。見晴るかす草木は初夏の頃といった風。一夜を借り、眠りに落ちたはずの寝室の気配はとうに無い。
……ああまったく、寝ている間さえ『此処』の気まぐれは容赦なく、こう放り出して知らぬ顔だ。
遠く、方向の当たりもつけられぬ遥かどこかで、鐘が隠々と響き渡った。
今日も、書と知を求める放浪が、始まる。
ほそい背表紙がふと目に入る。これも縁と、忘れ去られたような小部屋に積まれていた本から、その一冊を取り出した。
落丁、意味の通らない書き付け、欠けた記述。断章を拾い上げていくと、紙面を滑って何かが手の中へ落ちてくる。古びた栞。
枯れ葉色をしたその遺産は、先達からの夢路の跡だろうか。
夜半、ゆるやかに自我が浮かび上がって眠りから覚める。サイドチェストに置いた筈の小冊子はもう消えていた。
かわりにやってきていたランタンが、小さく火影を揺らして、方々に影の筆を踊らせている。この寝室に書き付けられた影文たちも、夜明けと共に去っていく断章なのだろう。
短杖の先に灯したあかりが、惑うように頼りなく震える。ゆらめく光に影が踊り、めいめいに勝手な断章へと繋がって、床、壁、天井、あるいは窓の外へと、数多の書の影を綴りだした。
こうして書痴たちは、夜の暗がりにさえ、うっかりと追いかけるものの後ろ姿を見いだして、またぞろ本の虫となるのだ。
鳥の影がいっせいに羽ばたき陽を陰らせた。重なり奏でられた羽音は葉音にも雨音にも似ている。まばたきも覚束ない眠り目に、その影たちのくれた遮光幕はたいへん有り難い。
午睡への強い誘惑、ようやっと手にした二度目の書への執着。ふらふら両の欲求に翻弄され…気付けば眠りに落ちていた。
朽ちた祭壇に、真新しい本。
絹張りか、艶やかに光を照り返す表紙が、斜陽の空間に君臨している。ただ、そこに記されていたはずの表題は、ない。
手にとって見れば、枯れた金色が点々と残されて、赤みを帯び始めた空の色に染まっていた。
箔押しされていた文字はどうやら、先に立ち去っていったらしい。
夜更け、冷え始めた空気に身を震わせる。月日も季節も置き去りにしたこの地では、風も気紛れに在り方を変えるのが常だった。今夜は、冬の気分らしい。
名残惜しさを飲み込んで、荒れ朽ちた書棚の森から抜けると、手近な扉を開いて逃げ込む。招かれた先には暖炉とテーブル、ソファ、そして…本。
ライブラリ、ライブラリ、ライブラリ…。
どこかで音なき声が優雅に歌う。
ライブラリ、それが果たして何を指すのか、見えず聞こえず触れられない、幻の歌い手は、いつも答だけは告げずにどこかへ去ってゆく。
ライブラリ──図書館、蔵書、作品集…あるいは関数群。
はらはら紙片が舞い落ちる。花のように落ちて積もり、雪のように積もって消える。この断章たちもいつか読み解くことができるのだろうか。
伸ばした手には気休めほどの重さが掠めて、それもすぐに風へ帰っていった。
ちらちらと文字たちが宙を舞う。ここでは永遠に物語たちが踊るのだろう。
梢の葉擦れに耳を叩かれ、上げた視界には書架の森。この王国はまったく気まぐれだ。手にした本に目を落とした一瞬で、並んでいた本棚たちは、洞(うろ)に書を収めた木々へと風景を一変させる。よく見れば、木漏れ日もまた文字を綴り、地面にまで書架を作ろうとしていた。
いつも通り放浪は続く。
うつらうつら、夢を見た。誰かの指先が踊っている。綴られゆく記述はよく見えない。
手が止まり、最後の点がひとつ置かれると、真新しい紙が舞い上がる。
ああこれは書架の始まり、迷宮の回想だ……あの手は指は、果たして何を語り紡いだのだろうか。とりとめない思いは紙吹雪に呑まれて溶けた。
崩れかけた書架の扉を押し開くと、潮騒に統べられた白と紺碧が眼前にあらわれた。途端にノブの感触は消え、扉はもう無い。
白い真砂は記述を待って忘れ去られた紙のようで、波が束の間、その白紙にしみを付けては消えてゆく。
海底には揺れる文字たちが見え──その遠さに吐息が零れた。
雨粒がぱたぱたと地を叩く。降り始めてしばらくすると、薄く水を張り始めたそこに、まだ見ぬ断片が映りだした。
水溜まりの先にたゆたうのは、鍾乳石の柱と、彫られ刻まれた文字たちの森。……この書架の国を彷徨っていれば、いずれ辿り着くこともあるのだろうか。
今日はゆるゆると時が過ぎる。白でまとめられた瀟洒な書斎にまだ夜は来ない。はて、昼はもう過ぎただろうかと窓を見やるも、日は高く、どうやらこの王国の時間は亀の歩みという気分らしかった。
それならそれで、断章を読み集めるにはちょうど良い。日が落ち眠りの使いが来るまで書に浸ろう。
夜の足音がささやかな気配で近づいてくる。わずかに冷えてきた風、落ちる影、かげる光。
その中にも王国の断章たちは素知らぬ顔で紛れ込んできた。のびる影はふと踊り、文字を綴る。書から漏れた記述はすぐに姿を消すので、捉えるのは一苦労だ。果てのない、追いつ追われつの彷徨は甘く、苦い。
透き通った空気がゆったりと空へ帰ってゆく。書架の国は気紛れに季節を変えてゆくが、今日は冬の気分なのだろうか、上着を羽織ってもやや肌寒い。どこか建物はないかと城跡をしばし歩くが、見つかったのは古い四阿だけだった。野ざらしよりはましかどうか。近づけば、紙片がそっと置かれていた。